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5月の「19日行動」

 投稿者:荒木  投稿日:2017年 5月22日(月)12時16分5秒
返信・引用
  5月の「19日行動」

安倍政権の暴挙を忘れない!
私たちはあきらめない!
戦争法廃止!

共謀罪(テロ等準備罪)は治安維持法だ!

新瀬戸駅前ロータリー&ナフコ前で宣伝・署名活動を行いました。
参加者は約30名。
それぞれの思いを、市民に訴えかけました。
 
 

第43回例会のお知らせ

 投稿者:荒木  投稿日:2017年 5月10日(水)19時59分34秒
返信・引用
  第43回例会                                     《 瀬戸・教職員九条の会 》
日 時: 6月10日(土)9:30~ 12:00
場 所:瀬戸市文化センター32会議室
内 容:
「アベ政権の教育政策の検証 &  教職員9条の会の役割」(仮題)

   第一次安倍政権で教育基本法が大きく改悪されました。その後の引き続く反動的国家教育政策は、子どもたち・教育現場に混乱を招き、管理統制が一層強まってきています。安倍政権下で貧困と格差が広がり、生きづらい世の中の構図は教育現場も例外ではありません。
「教育勅語」をはじめとする復古主義的教育観が勢力を増し、安部 首相は憲法に「自衛隊」を条文に明記し、2020年に施行するとまで表明するなど事態は緊迫しています。
教職員9条の会の果たすべき役割はとても大きいです。
“教え子を再び戦場へ送らない”
夢とロマンを語り、明るい未来を子どもたちに贈るために国民大運動の一助となるように力を尽くしていきましょう。

今回の例会は、安部政権の教育政策についての基調報告を受けて、参加者で意見交換を行います。
    ・森友学園問題
    ・新学習指導要領
    ・教育勅語
    ・現場のリアルな状況
    ・瀬戸市での小中一貫校問題
   など、皆さんの興味関心のある課題のレポートが寄せられることを願います。

            【連絡先】 事務局:荒木 庄平(℡&Fax  0561-84-6214)


 

5月の19日行動

 投稿者:荒木  投稿日:2017年 5月 7日(日)09時44分58秒
返信・引用
  5月の「19日行動」をお知らせします。


安倍政権の暴挙を忘れない!
私たちはあきらめない!
戦争法廃止!
共謀罪(テロ等準備罪)は治安維持法だ! !
あなたのスマホも監視されるカモ! !
あなたの思いを形にして(プラカード、幟等を持って)参加して下さい
黙っていられないあなたの一言を、皆さんに聞いてもらいましょう!
主催 戦争ゆるさない瀬戸の会
連絡 こうはん・すいなん9条の会 増田( 5 6 - 8 1 8 0 )
k o u h a n _ s u i n a n 9 @ y a h o o . c o . j p
● 2017 年5 月19 日(水)午後4:00~5:00
(時間内いつでも、どなたでも参加していただけます)
● 新瀬戸駅前ロータリー付近でスタンディング
雨天の場合 連絡通路
2015 年9 月19 日の戦争法強行採決に抗議しての
スローガン・コール、歌
 

武力による威嚇

 投稿者:ガジ  投稿日:2017年 5月 5日(金)18時07分8秒
返信・引用
  米艦防護は、9条に違反する行為ではないんでしょうか?

国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は
国際紛争を解決する手段としては 永久にこれを放棄する

「北の国の委員長さん
 もしこの米艦を攻撃するそぶりを見せたら
 日本の自衛隊の護衛艦が火を噴くかもしれないよ!」
・・・って、これ武力による威嚇じゃないのかな。

きっと「国際紛争を解決」するためではないとか弁明されるのかな

 

2017尾張東メーデー

 投稿者:荒木  投稿日:2017年 5月 4日(木)11時08分34秒
返信・引用
  写真
 上 歴史ある組合の旗
 下 谷口賢造氏の墓前

<谷口賢造氏のプロフィール>
 1891年 当時の瀬戸町に生まれ、陶工となり薄手の反茶碗作りを得意とした。京都での陶工の修業を積み、その後労働運動の担い手となり、労働運動・消費者組合にも取り組み43歳の若さで世を去った。
 1930年の世界恐慌が発生する中、瀬戸市では40の製陶工場が全休し残りの工場も半休するなか、瀬戸市東部の窯業家(経営者)から瀬戸陶工組合に対して、賃金2割引き下げが行われる中、陶工組合は宝泉寺に組合員100名が集結しストライキを行った。その時のストライキの中心人物が谷口賢造であった。
 争議は、小出瀬戸市長・加藤章氏(窯業家 後に市長)らが調停者となり、①賃金2割引き下げの撤回②ロクロ工の1日労働時間を7時間にすることで争議が終結した。(大島良満氏 瀬戸市史 通史(下)より抜粋)
 

2017尾張東メーデー

 投稿者:荒木  投稿日:2017年 5月 4日(木)10時52分26秒
返信・引用
  5月1日、瀬戸市宮前広場で2017尾張東メーデーが開かれました。
 加藤徹尾東労連議長の主催者あいさつの後、大島良満さんからメーデーの歴史についてお話がありました。県下では名古屋に次いで、瀬戸と田原がメーデーの集会を持ったという歴史のある集会とのことです。続いて、「@愛知7区」の会代表の太田さんから「安保法制廃止」「原発再稼働阻止」「人間の尊厳の擁護」めざし、7区で野党統一候補の勝利のために力を合わせましょうと訴えがありました。また、原田市会議員からは共謀罪をはじめとする悪法を許さない、安倍政権を倒そうと連帯の挨拶がありました。集会参加者は約130名で、瀬戸蔵からのアピール行進にも多数参加しました。
 集会終了後、瀬戸の労働運動の先駆者である谷口賢造さんを偲んで、宝泉寺の谷口氏の墓碑を訪れました。
 

誰もが逮捕・拘束される可能性がある共謀罪とは

 投稿者:岡田 守弘  投稿日:2017年 5月 1日(月)15時11分16秒
返信・引用
   誰もが逮捕・拘束される可能性がある共謀罪とは
                                                            岡田守弘
 今国会に「テロ等準備罪」という名前で提出されている法案は、名に偽りありの共謀罪法案なのです。国連国際組織犯罪防止条約の締結のためとか、東京オリンピックのためとか、いろいろな口実を付けて安倍内閣は説明ならぬ説明を繰り返しています。羊の皮をまとったオオカミの中身を持つ人権抑圧の憲法違反の法案です。
 本当の狙いを隠した法案は、後からいかようにも変えられる要素を含まれていて、警察権力が最大限乱用できる仕組みを持っています。特に、犯罪が起きない前に、その計画を話し合い合意すれば、1つでも準備行為をすると逮捕拘束されることになります。警察権力が事前に目星を付け、話し合いを盗聴し、行動を監視していなくては、裏付けが取れないはずです。このことには、2つの日本の法律のあり方を覆す根本的な誤りがあります。罪刑法定主義と言うことが守られないと言うことが1つです。罪を犯して始めて法で裁かれるという刑法の基本理念です。今1つは、警察権力が、四六時中狙いを付けた市民を監視していることが許されると言うことです。思想・信条の自由や内心の自由を脅かす、憲法違反の人権抑圧の悪法案です。
 2017年2月1日に「共謀罪法案提出に反対する刑事法研究者の声明」が出されました。その骨子は、次の5点です。
1,テロ対策立法はすべに完結しています。
2,国連国際組織犯罪防止条約の締結に、このような立法は不要です。
3,極めて広い範囲にわたって捜査権限が乱用されるおそれがあります。
4,日本は組織犯罪も含めて犯罪情勢を改善してきており、治安の悪い国をまねをする必  要はありません。
5,武力行使をぜずに、交渉によって平和的に物事を解決していく姿勢を示すことが、有  効なテロ対策です。
この5点が大変明確に共謀罪法案の問題点を突いていると思います。7名の刑事法研究者の方が連名で賛同者を募っています。
 また日本弁護士連合会は、2月17日に「いわゆる共謀罪を創設する法案を国会に上程することに反対する」意見書を採択しています。その中で、共謀罪に法案の基本的な問題点として、
(1)共謀罪法案は、現行刑法の体系を根底から変容させるもらみらとなること。
(2)共謀罪法案においても、犯罪を共同して実行しようとする意志を処罰の対象とする   基本的性格は変わらないとみるべきこと
    ①「組織的犯罪集団」と規定しても犯罪主体が適切に限定されないこと
    ②「計画」の要件が存在しても犯罪の成立が適切に限定されないこと
    ③「準備行為」の要件は適切に機能しないこと
    ④構成要件の人権保障機能が阻害される恐れがあること
(3)罪名を「テロ等準備罪」と改めても、監視社会を招くおそれがあること
(4)国連越境組織犯罪防止条約との関連誌からの問題点
    ①この条約を締結することが、共謀罪を創設する要件とはならないこと
    ②「予備」、「陰謀」、「準備」の段階の処罰立法がすでになされていること
    ③テロ対策のための立法がなされてきたこと
    ④条約の一部保留を行う余地があること
    ⑤テロ対策の必要性があれば、個別・具体的な立法で対応すべきであること
(5)共謀罪法案の要件はすでにある法律ですべてまかなわれるのであり、国民を監視社   会に陥れるものであり、個人の思想・信条、内心の自由を侵す憲法違反の法案であ   ることから反対する。
2つの団体の声明などを読んでいただければ、今回のテロ等準備罪法案の狙いが、本当は国民監視や自由を抑圧することにあり、憲法違反の悪法案であることがお分かりいただけると思います。誰もが警察権力に逮捕拘束される可能性を秘めた戦前の治安維持法につながるものであることが納得できるのではないでしょうか。この法案は廃案しかあり得ません。国民多数の力で葬り去りましょう。
 

19日行動

 投稿者:荒木  投稿日:2017年 4月 4日(火)14時27分13秒
返信・引用
  安倍政権の暴挙を忘れない!
私たちはあきらめない!
戦争法廃止!

● 2017 年4 月19 日(水)午後4:00~5:00
   (時間内いつでも、どなたでも参加していただけます)

● 新瀬戸駅前ロータリー付近でスタンディング
   雨天の場合 連絡通路

 フクシマ、沖縄、共謀罪、森友学園+加計学園+教育勅語、・・・・・

 あなたの思いを形にして(プラカード、幟等を持って)参加して下さい

 黙っていられないあなたの一言を、皆さんに聞いてもらいましょう!

 

名古屋市の中村区で中水という生花店を営んでいた父 太平洋戦争末期に召集令状、兵役でなくて、千種兵器廠へ徴収

 投稿者:水野 美智雄  投稿日:2017年 3月21日(火)20時48分18秒
返信・引用
  名古屋市の中村区で中水という生花店を営んでいた父
太平洋戦争末期に召集令状、兵役でなくて、千種兵器廠へ徴収

                            水野 美智雄
まえがき
 平成29年の1月は、寒波の襲来というか、鳥取県の大雪の年というのか、私が年老いたからか滅法寒い日が続いた。私の予想では、20日の大寒が過ぎれば明るく暖かい太陽の光が降りそそぐ日が来る筈なのに、暖かい日がやって来ない。
 ところが、1月29日(日)、明るく穏やかな朝を迎える。天が味方した『名古屋市の戦跡めぐり』。9時30分、荒木事務局長、若い甲斐教官、私の3名が集合し、瀬戸市駅前を荒木車で出発した。

1.<昭和10年生まれの私と太平洋戦争>
 近代の日本、明治維新以来、戦争に次ぐ戦争の歴史であったが、その中にあって、昭和10年は平和で穏やかな年であったと聞いている。本当のそうだったか私には分からないが、戦前、戦中、戦後の比較をする際の戦前の指標として取り上げられる年であるようだ。
 私の小学校入学は昭和17年4月であったが、その前年の4月、小学校は国民学校と改称され、私は、名古屋市中村区の日比津国民学校に入学した。
 新川から引かれた用水がめぐる田畑の中にあり、ブタ、ニワトリ、アヒルを飼育し、池にはコイ、フナが泳ぎ、校庭にはカイコの飼料となるクワの木が植えられ、秋にはおいしそうな桑の実が実った。
 3年生の修了の少し前、私たちが1年生から動物園と言って慣れ親しんだブタ、ニワトリ、アヒルなどがいなくなった。その直後、塗り物の弁当箱での給食を学校で食べた。
 春休みの学童疎開で学校が閉鎖されることも知らず、おいしい給食でお別れ会をさせて下さった先生方のご配慮があったのだ。私たちの動物園のペットさん。「ごちそうさまでした。」
 入学した1年生、2年生は、増田百合子先生でした。米英と戦争を始めた日本でしたが、やさしく親切な先生で勉強もがんばりました。写生会も競書会もありました。競書会の手本は「ダングワン(弾丸)」でしたので戦争中のお手本だったな、と思い出します。地域の他の学校に集まっての合唱コンクールにも出演しましたので、戦争中とは言っても、とてものんびりした落ちついた1,2年生の学校生活でした。
 ところが、3年生になると学校生活にも大きな変化がありました。担任の先生は年長の男の先生になりました。叱るとき、ビンタをつる先生でした。最悪の叱られ方に、「そんなことをする奴は『国賊』だ!」と、ビンタをつられることでした。
 アメリカの大型飛行機による爆撃に備えての避難訓練が始まりました。「警戒警報発令」、「空襲警報発令」、「敵機来襲。伏せ!」。3種類の言葉を覚え、運動場へ町内別に整列して、家へすばやく帰る練習をしました。私たちの栄生町(えいせいちょう)は、八幡社が通学班の集合場所で、社からは各自帰宅します。訓練は先生の号令でした。「敵機襲来。伏せ!」の号令で、田畑の低い所へ腹這いになり、目と鼻と口を押えました。爆弾の破片や爆風から身を守る姿勢をとる練習でした。水のたまった所で、「伏せ!」の号令が掛かれば、服も顔もドロまみれになりました。
 町内には大きな防火用の天水槽が作られ、各住宅の玄関脇には水槽が配給され、バケツと火たたきと、トビグチがセットで備えられました。お母さんたちは、時々、バケツリレーで火を消す訓練もしていた。
 大きな家の屋根上に町内の警防団の監視所のヤグラが作られました。各戸に防毒マスクが1個ずつ配給されました。火の手が上がっても、逃げられない男性の防護用の1個でした。

2.<父へ召集令状(赤紙)。兵隊にはならず、千種兵器廠へ徴用される>
 3年生の2学期だったと思う。生花店を営んでいた父が37歳の秋、父に召集令状が来た。兵隊として出征せよ。検査の結果、足のケガの後遺症で、靴を履いて長時間歩行ができないという診断で、陸軍の兵器工場へ勤ることになった。機械工の経験がないため、守衛の仕事であった。夜勤もあり、花屋を閉めることになった。父は、工場へ勤め始めた。「世界一の強力な機関銃を作っている工場だ。」と自慢していた。母は花屋を続けるつもりであったが子育て中心の生活になった。
 父の召集令状の数か月後、守山の小幡の伯父へも、召集令状が来た。40歳を超えていた父の兄の伯父は、高齢で兵役は来ないと思っていましたが、本土決戦要員となったのでしょうか。
 冬の初めの暖かい日でした。父と私が伯父の兵隊送に行きました。集合場所は名古屋城の陸軍歩兵第六連隊であった。六連隊の広い芝生の上に、出征する兵隊さんと送ってきた家族が円座を組んで座っていました。出征兵士の集合となって、見送りの者は帰途に着きました。
 名古屋城から、名古屋駅前の櫻通りへ出て、駅前に近くなった頃、
「ブンブン、ブンブン」と低く、小さな爆音が聞こえました。それがだんだん、近づいてきます。

3.<米軍爆撃機B-29の初めての名古屋空襲>
 私の住まいは、東海道線沿いに走る名鉄電車の新名古屋駅から1区の「栄生(さこう)駅」西にあった。もう少しで新名古屋駅という桜通りを歩いている人々が、空を仰いだ。
 小さくキラキラ銀色に光る編隊の機影を見て、「あれは日本の飛行機ではない。」と不思議そうに話した。そのうち、黒い粒々のものを落とした。
 「何か撤いたぞ!」「ダ、ダーン」。爆裂音と地響き。「ダ、ダーン」、「ダ、ダーン」。「爆弾だ!」、「防空壕へ入れ!」
 見れば、広い桜通りの歩道には、一列に、防空壕が掘られていた。
 通行人は、みな一斉に飛び込んだ。
 中に入ってみると、ここの防空壕は、穴の上に縦横に木の枝や竹材を渡して、その上へ歩道の四角いコンクリート板を敷き詰めた粗末なものであった。透間から飛行機の爆弾投下の様子が見える。とても粗末なものであった。
 爆裂音や地響き。初めての爆撃に生きた心地もなく、皆おし黙っていた。「この防空壕では駄目だ。静かになったら、駅まで走って、名古屋駅の地下道へ避難しよう。」この思いが、壕に入っている者の総意でした。
 冬日の落ちるのは早く、爆撃も静かになりました。みな、名古屋駅の地下道へ走りこみました。夕飯も忘れ、深夜近くになり、駅を出て家路に着きました。電車にも乗らず真っ暗な夜道を家まで歩いて帰りました。この日の空襲は名古屋市に集中していた航空機工場をねらったもので、南の伊勢湾から、港区、中川区と北上し、東区の矢田川沿いの三菱重工の航空機工場へと、飛行機の工場を爆撃したようです。
 やがて始まる民家も工場も見境なく大量の爆弾や焼夷弾で破壊する無差別爆撃とは違って帰り道の両側の住宅は真っ暗な中に整然と残っていました。家で待つ母や二人の妹たちは空襲は恐かったでしょうが、防空壕に入って無事だろうと思いました。家に着いたのは、真夜中近くだったでしょう。でも、家に着いて、母や妹とどんな話をしたか、食事をしたかどうかも覚えていません。  この初めての空襲は、警報のサイレンを聞いた覚えもありません。高射砲の音も覚えていません。日本の戦闘機が、戦ったと思いますが覚えがありません。9歳になったばかりの私が、初めての空襲を受けた夜でした。家に居て3歳になったばかりの妹と5歳の妹を連れて初空襲を受けた母、どんなに不安で私たちを待ったことでしょう。この日の2~3時間の空襲で、沢山の人が亡くなり、傷ついたことでしょう。全く記憶はありません。

4.<防空壕へ入らず、逃げる用意をして布団の中にいた>
 初めての空襲があってから、毎日毎晩空襲が続いた。
 大地震も二度あり、防空壕の回りに戸板を並べて寒空の下で寝た。敵機が来ると防空壕に入り、爆弾から身を守ったが、地震による生き埋めも恐ろしかった。また、父が勤めに出た日は、母一人で3人の子供を避難させねばならぬ。その内に、私が散髪に行く理髪店の一家が縁の下の防空壕で直撃弾を受けて全員亡くなったという悲報が伝わった。
 その日の夜から、上着だけ脱いでのごろ寝となった。「直撃弾だったら、母ちゃんと一緒に死のうね。」私は「ウン。」とうなずいた。小さな妹たちも、了解した。警報のサイレンを聞いても、寒い夜、防空壕に移動しなくてよい。母と一緒に真っ暗な部屋の布団にもぐって、高射砲の音や「ブンブン、ブンブン」Bー29の爆音や「ダンダーン」と爆弾の音。爆音が頭上を越えて行く。「爆弾、落ちなくてよかったね。」飛行機の音と爆弾の音の聞こえ方で、生きていたことが分かるようになった。経験し、慣れることで、母と兄妹4人が一緒に死ぬことが、さほどの恐怖ではなくなった。
 町内の警護団の人の声。「火の手が上がった。避難せよ!」
 母の声。「美智雄!逃げるぞ!」
 母は二人の妹に服を着せ、防空頭巾をかぶせる。私は自分のことは自分でする。乳母車を道路に出して、妹を乗せ、乳母車の上に布団をかぶせる。前の角を私が手で掴んで引く、母が押す。妹たちは布団のすみを掴んでのぞいている。やがて、航空母艦からの戦闘機(艦載機と呼んでいた)が、逃げる人に向かって機関銃の掃射をする。私と母は乳母車の影へ身をひそめる。また、暗い方へ逃げる。時々、照明弾(落下傘の下に照明用の火薬が吊り下げられた明るい兵器)を落とす。真昼のような明るさになる。機関銃の掃射をする。逃げる方向の民家に焼夷弾が落ちる。アメリカはお金持ち。一軒の家へ、何10発かの焼夷弾が束になって落ちる。「メラメラッ」と、アッという間に家が燃え上がり、あっという間に焼け落ちる。昼間のように明るくなる炎。「火の手が上がった。避難せよ!」と指示が出るが、非難するのは「女と子どもと老人」一人前の男性は、住宅、地域を守る要員で、逃げることはできない。父が非番で勤めに出ていなくても家にいても逃げることはできない。防火用水の水を汲んで、消火するなんてことはできそうもない焼夷弾による炎である。「避難せよ!」の指示は出るが避難場所があるわけではない。「火の手の上がってない暗い方へ逃げよ!」ということである。私達の住まいの外れには学校の方に田畑があった。その方へ逃げよ、ということである。新川用水路が縦横に走っているため、用水路に遮られ、逃げ回っている内に、いつも、東海道線が用水と道路を越える鉄橋の下へ追いつめられる。最も危険な場所ですが、不思議なことに、ここまで来ると空襲が終わり、空襲警報解除のサイレンが鳴りました。
 赤々と天を焦がす夜空、「うちが残っているといいね。」と母の声を聞くと、ゾクッと寒さと怖さと、何とも例えようのない淋しさを感じました。以来70年を経た今でも、背筋がゾクッとする、その時の感触を忘れることができません。
 ※ 東京大空襲の死者が多かったのは、住宅の密集地であった焼夷弾による焼死者が多かったためで、逃げずに消火させようとしたためだと言われています。東京に比べて名古屋は、空地が多かったといわれています。

5.<学童疎開。母方の祖父母が疎開していた瀬戸市へ転居した>
 名古屋空襲は、東京空襲と比べても激しいものであった。それは、航空機工場が名古屋に多かったからだと言われる。学童疎開は、名古屋市で計画的に進められ、市内中心部は夏休みに、工場の多い周辺部は冬休み、そして、田畑のある住宅のまばらな地域は、学年末の春休みに計画されたようだ。私の両親は、子どもの私にそういうことを話すことをしなかったので、急に瀬戸市へ疎開した。私は友人に黙って爆撃の少ない所へ逃げた卑怯者という後ろめたさがあり、戦後になっても、出生地の親しかった友人を訪ねることもできない。転居先は、祖父母の疎開先の真向いの家で、国府さんという3階建の大きな陶器の卸売店の真裏であった。
 私が瀬戸市へ疎開する前に、瀬戸市西部の新開地が爆撃されました。私が疎開した頃、盆地状の市の中心部では、延焼防止線の空地を0~30m幅の道路建設によって作る工事をしていました。これを建物疎開と言いました。東西に流れる瀬戸川の橋から南北へ、瀬戸駅から東へ窯神橋線、記念橋線、宮前橋線、中橋線の4本、住宅や工場を壊して撤去していました。自分の安全を求めて転居した私たちでさえ見るに忍びない打ち壊す様子は、破壊される空地になる所に住んでいた人の無念は痛い程分かりました。
 父は、工場の非番の時、運搬車とリヤカーを連結した車で、必要最小限の家財道具を名古屋西部から運び、私が運転できない子供自転車を運んでくれたお陰で、転校にも友だちが遊びに来てくれました。陶本町の家は雨漏りがひどく、1~2ケ月で中橋近くへ転居し、道泉学校から深川学校へ転校しました。父には、また、大仕事でした。でも、成人の男性は、国や地域を守る者として安全な所へ疎開はできません。父は、千種の兵器廠の近くに家を借り、栄生町から単身千種区へ転居して、工場へ通っていました。

6.<戦争とは、劣悪な環境の極み>
 5月になって名古屋城が空襲で焼失しましたが、父が勤めていた千種陸軍兵器廠も、住宅も、相前後して爆破・焼失し、「やられた」という姿で、瀬戸の家へ帰ってきました。2~3日後、岐阜県大井市の兵器廠への転勤が決まり、瀬戸市の家から中央線で勤務するようになった。床下防空壕の外に、本土決戦用の防空壕を瀬戸公園西の崖下に作り、錠前付きの玄関扉まで着けた。少しの食料と衣服を持ち込んで、家内総出で飯ごうで炊いたご飯を食べたりしたこともあった。
 父の勤めが岐阜県大井市になり、父が瀬戸市で家族と住むようになってから家にウサギを飼うようになりました。ペットではなく、大きく育てて食肉にするための食用家畜としてである。エサの草取りは私の仕事でした。父が出掛けて肉と毛皮を持ち帰り、スキヤキが始まっても、私だけはお肉に箸が出ませんでした。
 食糧事情は悪くなり、命をつなぐ食べ物が手に入らなくなった。私は学校へ出掛ける。通学班で登校。校門が近くなると、班長が軍歌を歌わせる。号令に合わせて、元気よく、校門を入る。大抵毎日、昼前に「警戒警報発令」のサイレンが鳴る。運動場へ町内別に並び、「空襲警報」が発令される前に各々家に帰りつく。夜は夜で、空襲があった。でも、不思議に爆弾や焼夷弾は落とさなかった。西の名古屋の空が朱に染まるのを見るにつけ、日比津学校の学友の顔が目に浮かんだ。爆撃されないのに隊列を組んで逃げる。瀬戸へ来てからの通学班別の下校に、名古屋での空襲から逃げ出してきたことの裏めたさを余計に感じた。
 夏近くなって、先生から宿題が出た。戦地の兵隊さんにトノサマガエルやヘビの干物を慰問品として「送りたい。捕えて、皮を剥いで、天日干しして、持参するように。」変な宿題ですが、近所の友だちと紺屋田の池へカエルを捕まえに出掛けた。提出日の学校は、見事な干物展示台が拡がっていた。
 母と二人の妹は、電車を乗りついで、名古屋市の栄生に住んでいた頃からの農家の知人を訪ねて、食物を買い求める日があった。3歳と5歳の幼児をかかえての遠くまでの買い出し、母も二人の妹も大変だったと思う。
 農家でも、知人でも、農作物を喜んで売れる程の収穫は無かったという。何故なら、農作業をする屈強な男性は兵士となり、軍需工場の工員として出征し、徴用されてしまっているからです。
 兵隊さんは、昔から、兵器と兵糧は持参するのが本来であるのに、この戦争では、兵糧は現地調達という戦術もあり・・・だったとか。勝てそうもない戦争を「一億一心」と・・・戦ったものです。知人の農家の人は、子どもを連れた母に、おいもなどを分けて下さったのでしょう。おかげで、虚弱な赤ん坊で生まれた私が、父や母やお医者様や看護婦様そして、数多くの人々の愛情で81歳の高齢を迎えることができました。トノサマガエルの干物広場は、「命を永らえるためには、カエルでもヘビでも食べなさい。」という、深川学校の先生方の愛情に裏打ちされた表現だったように捉えていました。

7.<母の死。妹の死。日本の敗戦>
 私の母は、73歳で亡くなりました。その前夜、母は山口病院の病室で、せともの祭の花火の音を、看護する私の顔を大きく目を見開いて眺めながら聞いていました。酸素吸入マスクをつけていましたから言葉にはなりませんが、目は、「もう治りそうもないから、家へ帰りたい。」と言っていました。花火は終わっても夜が更けるのも苦にせず、私を眺めていました。私の明日を心配する母親の目だと思いました。「明日は先生に頼んで家へ帰してもらうから。もう眠りゃあ。」と声を掛けました。コクリと頷いて、目を閉じました。そのまま目を開くことなく、翌朝、息を引きとりました。
 私は9歳、3年生の3学期の空爆からの避難を思い出していました。母のお陰の私の命だと。亡くなる数日前、マスクもつけてない頃、母が、うわごとで、「とうちゃん、助けてえ。とうちゃん、助けてえ。」と叫んだことがあった。強い“とらうま”は、最後のときに出る、と言われるが、真珠湾奇襲が開戦となった太平洋戦争突入の10程前に生まれた下の妹と、その2歳上の長女、そして、4歳違いの私と、三人の乳幼児をかかえた母、父が突然の召集で軍需工場へ動員され、空襲で燃え上がる町を逃げまわり、あげくの果て、瀬戸市へ疎開しながら、終戦間際の8月4日、3歳の二女を病気で失う。下痢のため栄養不良による急な死亡であった。亡くなる前日、ま昼なのに「暗いよ。暗いよ。電気点けて。」と泣く妹に、「明るくしてやるよ。」と言ってきかせながら、「空襲の夜の暗い夢を見てるんだ。怖いんだろうね。」と、横にいる私に話しかけた。父のいない、晴天の明るい日であったが、とても暗い日であった。翌日、妹は死んだ。棺桶も手に入らぬ戦時中、衣服入れの半長持(大正箱)に母と二人で白い障子紙を貼って、まっ白な棺を作った。「この子は、戦争だけを見に来た子だ。」と私に言った。父が軽い小型のリヤカーを筋向いの絵付工場で借りて来た。父と二人で近くの弘坊山の墓地までリヤカーを引いた。親戚のみなさんが葬列を組んで、墓地に埋葬した。私は葬式が終わってからも毎日毎日泣いていた。
 父が私に言った。「死んだ妹の分まで、生きているもう一人の妹を可愛がってやれ。」と。私は瀬戸一、妹と仲よしの兄になろうと思った。
 8月15日、正午。
父と父の在所のラジオで天皇陛下様の終戦のおことばを聞いた。おばあさんを中心に、大人の男は父一人だけで、あとは、子どもとおばさんばかりであった。おばあさんが独り言で、「アメリカ兵は、日本人をじゅずつなぎにして、道路に並べて、戦車でプツプツと轢き殺すそうじゃ。オレは、砂防池に飛び込んで死ぬ。」とつぶやいた。
 日本が負けた。「早く戻って来て下さい。在所の主人の伯父も、父の弟の叔父も軍人として出征中。みんなが待ってます。」

あとがき
 終戦記念日を4年生の8月15日に迎えました。昭和10年10月10日生まれの私は、数え10歳の昔から『つだち』と言って、一人前に扱ってもらえる男子になっていました。
 終戦直前に栄養不良のまま死んだ小さな妹を、可愛そうだと泣いているのを叱られたのも、考えてみれば一人前扱いにされるようになっていたのでしょう。
 我が家の父母も私も、長女の妹も、戦後、一切、戦争中の話はしませんでした。先に死んだ妹が不憫だったからでしょう。
 私が戦争中の話を人に話したのは、教員生活の定年の年の3学期でした。
 3年の学年主任の先生から、「担任している3年生の子どもたちへ歴史の授業をすすめて来ました。」「最後のまとめのつもりで、『水野先生の3年生の生活』を話してやって下さい。」と頼まれました。「いいよ。」いい気持ちで返事をした。ところが、困った。社会科の教師として中学で教鞭を取ってきたこともある私ですが、小学校3年生当時の空襲の中を逃げ回り、瀬戸市へ疎開し、あげくの果て、下痢で妹を亡くした。こんなみじめな話はしたことがありません。約束の授業の日が迫る。
 涙を流して泣かないように子どもたちに授業をするには、と考えた。紙芝居を作って、演技をしよう。
 3年生の子どもさんから拍手をいただけました。先生からもお礼を言ってもらいました。本当のでき栄えについては、覚えていません。
 忘れもしない2006年8月15日。時の首相小泉純一郎氏が靖国神社参拝をやってのけた。平和主義日本国の総理大臣がである。日本中が賛否両論で騒ぎたてた。
 私は騒ぐ技もなく、暗い気持ちになった。と同時に悪い病に取りつかれたのか、体重は減り、痩せて行った。やまうち内科の先生の治療を受けた。先生は、「心神症以外、考えられない。」「何か心配事でもあるのでは?」と、診断された。「考えてみます。」と辞した。
 新聞報道では、中央の東京では2004年に『九条の会』が立ち上がった。自分の病は、動けば治り、直ると思い、東京へ親戚か知人を探して旗でも振って騒いでみよう、デモについて行進してみようと考えた。
 そうこう悩んでいるところへ、先輩の先生から、瀬戸に九条の会を立ち上げようとのお誘いの電話をいただいた。本当に私にとっては神の声であった。体重も増え、気力も戻った。
 今回の名古屋市内の戦跡めぐり。名大教育学部があった八連隊跡の壁は無くなったし、千種兵器廠跡地に市邨学園などが設立され頃の大壁はミニチュアの壁になったが、本物を見た青年時代、まっ赤に燃え上がる名古屋の夜空を見た私には、日本の平和憲法を守り、全国~世界と声を上げなければと思った。
 平均寿命を超えて81歳の私だが、平和行進ができる足を大切にして100迄歩きたいと思っている。
 

3月の19日行動

 投稿者:荒木  投稿日:2017年 3月21日(火)08時51分28秒
返信・引用
  19日行動

日時:3月19日(日)12:00(パレード終了後)~13:00
場所:パルティせと前

      パルティを背にして通行人や車に向かって
   発言も、通行人や車の人を意識して
   歩道を行く人の邪魔にならないよう配慮して

 原発なくそう「たのむぞ おとな。」inせとのパレード終了後、パルティ瀬戸前で
毎月恒例の「19日行動」を行いました。
 
 

第43回例会のお知らせ

 投稿者:荒木  投稿日:2017年 3月20日(月)22時22分48秒
返信・引用
  第43回例会                                     《 瀬戸・教職員九条の会 》
日 時: 3月26日(日)9:30~ 11:30
場 所: 瀬戸市文化センター11会議室
内 容: 加藤 洪太郎 弁護士
 「自衛隊の南スーダン派遣と撤退にみる日本の岐路」
~教え子を再び 戦場へ送らない! 命ファースト
だれも戦争の加害者にも被害者にもしない~
 

第8回原発なくそう「たのむぞ おとな。」inせと

 投稿者:荒木  投稿日:2017年 3月20日(月)22時03分49秒
返信・引用
  第8回原発なくそう「たのむぞ おとな。」inせと

日時:3月19日(日)10:00~
場所:パルティせと&市内

 福島県浪江から避難、県内仮設に4年、一昨年関西に移住された菅野みずえさんのお話を聞きました。会場にはあふれんばかりの参加者。
 避難の実態、放射性物質の危険性など胸の奥に響き渡るお話でした。最後に、次のようにまとめられました。

「みなさんがわたし達にならないように
  今ならまだ間に合います。
   気付いてください
   みなさんは、わたし達が失くしてしまった、
   2011年 3月10日に続く今日を生きておられます。
   わたし達はあの日に続く、普通の明日を失くしてしまった
   あの日持っていた未来への希望はことごとく潰され、
   全て語らなくても分りあえる人々と切り離され、
   気候も言葉も違う場所で、知らなかった町で、
   全く違う今日を生きている。
   こんなことにならない明日は、今なら選べます。
   どうかきづいて、選んでください
   今はもう行動の時、時間は待ってはくれません。
   原発事故記念日にだけ集まっていたなら、明日はみなさんはわたしになる!
   ヨウ素剤を身に持って逃げる準備をしながら、廃炉へと頑張りましょう。」

 菅野さんのお話の後、外に出て集会と市内パレードを行いました。
 

署名活動

 投稿者:新井英文(元県立障害児学校教員)  投稿日:2017年 3月16日(木)22時24分1秒
返信・引用
  先日、瀬戸市の小中一貫校計画見直しの署名を近所にお願い文を添えて封筒に入れて配布した。一週間後、回収に回った。ほとんどの方が署名してくれたが、署名しない人もいた。

民生委員、市役所職員、市から受注の仕事をしている人に断られた。たとえ市と関係していても、中身を読んで判断して欲しかった。仮に署名したとしても、何らとがめられることはない。たとえ公務員といえども、思想・良心の自由は憲法で保証されているのである。彼らは一体何を恐れているのか。自己規制しているとしか思えないのだが。

中身がよくわからない、判断できないからという方もいた。わからないのではなく、わかろうとしていないのだと思う。私が教員をしていた時、こういう人が多かった。管理職側にもつかない、組合にも入らない、要するにフリーで、署名にも協力せず、当たり前のように組合の努力で獲得してきた権利だけは行使するのである。

うちは署名しない主義だという方。他と協力することをしない個人主義なのだと思う。

世の中、色々な方がいる。憲法9条についても、さまざまな考えがある。

9条があったからこそ、戦後、再び戦争を仕掛けることはなかったし、一人も殺さず、殺されなかった。

自衛隊と矛盾する9条を削除または訂正して、自衛隊を軍隊にして、北朝鮮の脅威に備える。他国でも戦争に参加できるようにする。

正反対の例であるが、ではどうしたらよいのだろう。国会や国民の多数決で決めるのか…。

瀬戸市の教職員9条の会は、後者の立場である。日教組も全教も、「教え子を二度と戦場に送らない」というスローガンで一致し、大切にしている。

平和がなくては、個人的人権も福祉も制限されてしまう。あの忌まわしい戦時中を絶対に繰り返してはならない。そのためには、世界に誇れる憲法9条を守らなくてはならないと思う。

平和な世の中を求めて、その大切さを市民に向けて発信することが大切である。自分はできていないけれど、例えば、平和の学習会や、平和行進や、毎月の6・9・19等の宣伝行動に、一緒に参加しませんかと誘うこと。

安倍内閣の国会の答弁を観ていると、とても危険な方向に向いていることを危惧せざるを得ない。大人の責任として、子どもたちのためにも、これを阻止しなくてはならない。

自衛隊の自殺者が増加していると聞く。本当に全部がそうなのか疑いたくなる。本当は、何人かは戦死したのではないか。それを隠蔽しているのではと想像するのは私だけだろうか。

(みずの坂在住・元県立障害児学校教員 新井英文)
 

19日行動

 投稿者:荒木  投稿日:2017年 3月 3日(金)20時17分5秒
返信・引用
  安倍政権の暴挙を忘れない!
私たちはあきらめない!
戦争法廃止!
あなたの思いを形にして(プラカード、幟等を持って)参加して下さい
黙っていられないあなたの一言を、皆さんに聞いてもらいましょう!

主催 戦争ゆるさない瀬戸の会
連絡 こうはん・すいなん9条の会 増田( 5 6 - 8 1 8 0 )
k o u h a n _ s u i n a n 9 @ y a h o o . c o . j p


2015 年9 月19 日の戦争法強行採決に抗議しての
スローガン・コール、歌
3 月19 日は、場所と時間がいつもと異なります

● 2017 年3 月19 日(日)正午12:00~13:00
(時間内いつでも、どなたでも参加していただけます)
「たのむぞ おとな」in せとパレードの終了と同時に同じ場所で始まります。

● 尾張瀬戸駅前・パルティ付近でスタンディング



[予告] 2017 年4 月19 日(水)の「19 日行動」は、今月とは場所と時間が異なります。
場所:名鉄新瀬戸駅前ロータリー付近、時間:1 6 :00~1 7 :00 雨天実施
 

19日行動

 投稿者:荒木  投稿日:2017年 2月21日(火)16時32分12秒
返信・引用
  19日行動

日時:2月19日(日)15:30~
場所:新瀬戸駅前

 25名の参加で、「平和・暮らしを守ろう」と市民に訴えました。

 次回は、3月19日(日)11:30~パルティせとを出発して、瀬戸市内をパレードします。
 10:00~11:30は、福島原発で被災されて菅野みずえさんのお話を聞きます。
 是非ご参加ください。
 

2月19日行動

 投稿者:荒木  投稿日:2017年 2月 3日(金)14時46分18秒
返信・引用
  安倍政権の暴挙を忘れない!
私たちはあきらめない!
戦争法廃止!
19日行動

日時  2月19日(木)午後3:30~4:30
場所  新瀬戸駅前ロータリー付近
内容  スタンディング、リレートーク、署名、コール、歌 等
 

第42回例会 名古屋東部戦争遺跡を巡る日帰り旅行

 投稿者:荒木  投稿日:2017年 1月31日(火)11時25分10秒
返信・引用
  第42回例会
名古屋東部戦争遺跡を巡る日帰り旅行

 1月29日(日)瀬戸信用金庫本店前を9時20分に出発し、下記のコースを巡りました。

①殉難者慰霊碑(大曽根駅南口)
②日独友好の碑(旭丘高校校門)
③名古屋陸軍造兵廠千種製造所被弾壁(千種公園)
④歩兵第六連隊の碑(名古屋城)
⑤第三師団司令部の煉瓦塀(名古屋城)
⑥護国神社
⑦軍馬軍犬鳩慰霊碑(名古屋城)
⑧日清戦争慰霊碑(日泰寺霊堂)
⑨昭和塾堂(城山八幡宮)
⑩城山八幡宮被ば爆鳥居等(城山八幡宮)
⑪陸軍墓地(平和公園)
⑫ロシア人・ドイツ人墓地等(平和公園)
⑬徳川吉宗墓・陳元贇墓・愛知時計電機殉職者之碑(平和公園)
⑭平和の碑(東邦高校)

写真は、上から
   ③名古屋陸軍造兵廠千種製造所被弾壁(千種公園)
   ⑦軍馬軍犬鳩慰霊碑(名古屋城)
   ⑭平和の碑(東邦高校)
 

1.19行動

 投稿者:荒木  投稿日:2017年 1月20日(金)20時55分11秒
返信・引用
  1.19行動
 毎月行っている定期宣伝行動を1月19日も行いました。
 参加者は約30名。
 「安保関連法の廃止」「原発再稼働反対」「人間の尊厳の擁護」を訴え、
 アベ政治を許さない! 市民と野党の共同で安倍政権を倒そうと市民に訴えました。
 

瀬戸・教職員九条の会の取り組みについて

 投稿者:荒木  投稿日:2017年 1月18日(水)10時53分7秒
返信・引用
  瀬戸・教職員九条の会の取り組みについて

①第42回例会の曜日を間違えてお知らせしてしまいました。
 正しくは日曜日です。申し訳ありませんでした。
 多数の皆さんの参加をお待ちしています。

②総会の後、加藤洪太郎弁護士の講演会を行います。
 詳細は後日お知らせします。

 とりあえず、下記の内容をご確認ください。

■第42回例会

日 時: 1月29日(日)9:30~ 16:00
              ※ 9:20 愛環瀬戸市駅/瀬戸信本店前集合

場 所:名古屋東部戦争遺跡&ピースあいち

内 容:平和憲法を守り
    “教え子を再び 戦場に送らない!”
                  日帰り旅行

■第12回総会&第42回例会

日 時: 3月26日(日)9:00~ 12:00

場 所: 瀬戸市文化センター11会議室

内 容: 一部  9:00~9:30
      総会

     二部  9:30~11:30
      講演会
        講師 加藤 洪太郎弁護士

 

全教「未来プロジェクト・ゆいま~る」参加と石垣島4日間

 投稿者:原田  投稿日:2017年 1月16日(月)21時01分29秒
返信・引用
  愛教労 平和と歴史の旅
 全教「未来プロジェクト・ゆいま~る」参加と石垣島4日間
                                    原田 千育

 今年は12月24日から4日間沖縄へ行って来ました。参加者はゆいま~るのみの5名を含めて20名でした。
 始めの二日間は全教主催の「未来プロジェクト・ゆいま~る」でした。24日(土)は、全体会で実行委員長の蟹沢さんの挨拶・名護市長の稲峰さんの挨拶・県知事の翁長さんからの連帯メッセージを聞きました。その後ジャーナリストで「標的の村」などの映画監督の三上智恵さんの講演でした。日本の面積の0・6%しかない沖縄に74%の米軍基地があるために、米兵によるたくさんの強姦・殺人・事件が起こった。基地が家の近くにあるということは、戦争に便利なところで、レイプ・殺人
・騒音・環境汚染などが起き、戦争になれば真っ先に標的になるということ。日本はアメリカの出撃基地であり、防波堤である。集団的自衛権が決まり、米軍が戦わず、日本が戦ってくれることを望んでいる。だから沖縄の人々は、基地撤去のために闘っている。とてもインパクトがあるお話でした。
 次に和歌山県の青年教師西口寛子さんと元自衛官で双子の兄を格闘技で暴行され殺された島袋恵祐さんと三上さんのトークでした。その中では「沖縄には平和的生存権がない。」権利は全員に与えられなければ民主主義ではない。平和や憲法は
国民が維持していく努力をしなければならないということが印象に残りました。
 参加者は1091名で、小さなお子さんを連れての家族ぐるみの方もたくさんみえ、とても頼もしかったです。事前に何回か学習会をして参加した県もありました。
 夕食会はとても賑やかで、沖縄の音楽バンドの最後にカチャーシーを全員で踊りました。子どもたちものりのりで、舞台に上がって踊る姿がとてもかわいかった
です。
 25日(日)は、フィールドワークで基地問題や沖縄線に関わる14のコースに分かれて出かけました。私は、「沖縄陸軍病院南風原壕群20号」の入壕体験と「飯あげの道」を通って「南風原文化センター」の展示を見学しました。1・8M四方の横穴に幅90cmの二段ベッドを置き、患者を寝かせ、片側を通路として使っていました。ひめゆり部隊の女学生が看護師として従軍していたところです。
 午後から石垣島へ渡りました。ホテルで夕食を食べながら自己紹介をしました。
その後、「スターウォッチング」に出かけましたが、曇ってしまって星はあまり見えませんでした。そのかわり地面に住む「蛍」を見ることができました。
 26日(月)はオプションツアーで戦跡めぐりや島めぐりなど、各自で申し込んで出かけました。私は、午前中に「シュノーケル」に挑戦しました。息をするのや
ウエットスーツを着るのが大変でしたが、何とかできてクマノミはじめきれいな魚
をたくさん見たり、餌をあげたり貴重な体験ができました。
 午後は竹富島に行き、牛車にのって村をまわり、おじさんの楽しい話を聞き、三線を弾きながら歌も歌ってもらいました。のんびりと村を歩いてまわりました。家は景観保護のためオレンジ色の屋根、白い壁、屋根にシーサーと決められています。
シーサーの下に仏壇があるそうです。夕飯は石垣牛のステーキを食べました。夜は
ホテルで琉球太鼓のシヨーがあり、空がよく晴れたのでホテルの屋上から星空がとても綺麗に見えました。
 27日(火)は、石垣島をバスで観光しました。あいにくの天候で風が強く、楽しみにしていたグラスボートは欠航でしたが、唐人墓・石垣鍾乳洞・やいま村・川平湾などを見学し、黒砂糖・ミンサー織・黒蝶真珠・泡盛・石垣ブルーの窯元などのお店でおみやげもたくさん買いました。ガイドさんがとても上手で、いろんな話が聞けました。
今回の旅行は、沖縄戦や現在の沖縄と基地の問題に触れ、改めて平和を維持するために私たちが何をしなくてはならないかを考える機会となりました。また、全教の若い仲間がこんなにたくさんいることに励まされました。ぜひ愛知にも若い先生を迎えたいものです。とても充実した楽しい4日間でした。

 

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